アタックNo.1(1969年)【動画】

アタックNo1 1960年代のアニメ
アタックNo1

だけど 涙が出ちゃう。女の子だもん

『アタックNo.1』の概要

アニメは、昭和44年(1969年)12月7日から昭和46年(1971年)11月28日まで放映されました。(全35話)

平成17年(2005年)に鮎原こずえ役に上戸彩、早川みどり役に酒井彩名を起用した実写版が制作・放送されています。(全11話)

『アタックNo.1』のあらすじ

東京から静岡県の富士見学園に転校してきた鮎原こずえは、バレーボールの才能と持ち前のリーダーシップでキャプテンとなってチームを率いていきます。

鬼コーチと呼ばれる本郷の厳しい特訓に耐え、仲間との絆も深めながら、強力なスパイクが武器の山本みさお率いる青葉高校、相手を脅迫して勝利を得てきた藤ようこ率いる甲徳高校、そして3年連続インターハイ優勝の名門 三位一体攻撃や稲妻攻撃を駆使する八木沢三姉妹の寺堂院高校など、さまざまな強敵に立ち向かっていきます。

高校2年からは全日本の選手に選ばれ、本郷以上の鬼コーチ 猪野熊大吾のもとで世界一の座をかけて戦い、ついに決勝戦で強豪シェレーニナ率いるソ連チームと対戦することになります。

覚書

東洋の魔女がもたらしたスポコン

現在であれば虐待、いじめ、パワハラと言われるような猛特訓。涙を流しながらも必死に練習を重ねるこずえ達に、女子ならずとも自分がチームの一員となったように共感し、応援したものでした。

1964年に鬼の大松監督率いる「東洋の魔女」が東京オリンピックでソ連を破って優勝。バレーボールは大ブームとなり、日本中あちこちでママさんバレーボールチームが作られました。私の母も近所のママさんたちのチームに入っていました。

ブームの中で生まれた「アタックNo.1(1969年)」も「サインはV(1969年)」も、全日本チームが想像を絶する厳しい猛特訓をしたからこそ金メダルをとることができたのだという”実際にあったスポコン”が制作の根底にあり、その後のスポコンアニメやドラマにも引き継がれていきます。

そして、日本のスポーツに対する認識は「死ぬほど厳しい練習を重ねなければ栄光はつかめない」ということで一致します。猛特訓当然、体罰やむなしといった風潮で、それは小学校から社会人まで共通したもので、日本人の皆が受け入れていました。

現在でも強いチームや選手の多くは鬼監督、鬼コーチのもとで育っていることは事実で、そこではとうの昔に禁止された体罰やパワハラが健在であることも周知の事実です。

ま、そんな時代背景は知らずとも、このアニメが秀作であることは間違いのないところではあります。

アタックNo.1 ディスコグラフィ

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アタックNo.1の映像

アタックNo.1 1969 第一話 Full Movie

アタックNo.1 1969 OP主題歌に違和感を感じた方へ

上の公式サイトの第1話の主題歌を聞いてて、違和感を感じた方へ。
公式サイトなんだから間違いはないだろうとは思いましたが、私も違和感があったので探してみました。↓これですね。あ~すっきりした。
1話から6話までは小鳩くるみが歌うOP、6話から104話までがこの大杉久美子のだそうで、こっちが刷り込まれてたんですね。なんとまぁ。

アタックNo.1 第7話 Clip

アタックNo.1 外国人による解説 Full Movie

外国の方がストーリー紹介していくれていて、面白かったので掲載しました。

映画 東洋の魔女 「アタックNo1」「サインはV」の原点 予告編

おまけ 東京オリンピック1966 東洋の魔女 VS ソ連 全勝同士の決勝戦 Full Movie

スポーツ史というだけでなく日本の歴史に残る試合です。1時間半ありますので、時間のあるときにどうぞ。

「サーブ権」とは

昔のルールには「サーブ権」というのがあり、サーブを打った側にしか得点が入りませんでした。サーブ権のない側はスパイクなどを決めてもサーブ権を獲得するだけ(”サーブ権の移動”と言いました)。

15点先取で勝利となりますが、サーブ権のため試合は非常に長い時間がかかり、5・6時間というのもザラにあったため現在のラリーポイント制に変わりましたが、観ているほうは「よっしゃ!サーブ権取った!」と盛り上がる要素でもありましたので、ルールが変更された際には日本の持ち味の”ねばり”が生かせなくなると嘆いたものでした。

東洋の魔女

「東洋の魔女」は、オリンピックで金メダルをとったから名付けられたということではなく、全日本チームの大半のメンバーが所属していた「ニチボー貝塚」が、海外遠征を行った際に、ソ連や東ドイツ相手に時間差攻撃や回転レシーブなど、今までになかった数々の技や戦略・戦術で勝利したことで、対戦相手の選手たちや観客などから自然発生的につけられました。

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